広東ゴルファー日記

香港とゴルフが好きな医学生投資家が毎日のことをつらつらと書く日記です。

【医学】病院実習で考えたこと 主に反省

こんばんは。広東ゴルファーです。

 

久しぶりに投稿させていただきます。これまで忙しくて投稿できなかったわけではないです。単に僕がサボったからです。

 

※この文章はお団子を食べながらお茶を飲んで書いております。

 

さて、医学生のカリキュラムというのは少し変わっていて、勉強と実習の二本立てで構成されています。

 

これは医者の卵に限らず、看護、作業療法放射線技師の卵も皆が「下級生で座学、上級生で実習」といった道を通ります。

 

いままで授業で教わる内容と実習では同じ病気、同じ状況なのに全く違うといった場面がたくさん出て来ます。

 

僕は医者の卵ですので主に病気についてですが、大学の授業で「この病気は~」とか「この遺伝子が~」と習っていると病気、ひいてはその患者さんが客体としてしか認識できなくなります。

 

例えば脳梗塞脳梗塞というと脳の血管が詰まってしまい、うまくしゃべられなくなったり、片半身が動かせなくなってしまうという病気です。

 

僕は「この血管が詰まるとこういった症状が出やすい」ということはわかります。しかしながら「この血管が詰まるとこういった症状が出て、そして、ご夫婦の思い出の地に旅行することはもう難しい」という思考にはなりません。

 

つまり病気のことを考えることはできても、その病気で苦しんでいる患者さんのパーソナルな部分に目がいかなくなってしまっているのです。

 

これは(自分で言うのは良くないですが)仕方のないことだと思います。ずっと知識として言うなら「血の通っていない」勉強をずっとしてきたわけで、そこで突然、「患者さんの立場を考えろ」と言われても頭がついていきません。

 

そんなことを思いながら外科の週になりました。

 

始めて入る手術室はたくさんの機械が所狭しと並んでいて、コードが床に散乱していて、アナログの時計の横にはデジタルで「手術時間」が表示されていました。

 

何とか事前に習っていた手洗いとガウン着用を済ませますが、ここでいくつか注意を受けます。

 

患者さんが術後に感染症にならないように細心の注意を払って術野は清潔にされており、またガウンも、手洗いも、手洗いの後の手を拭く動作まで細かく動きは決まっています。

 

その手順を間違えたり、清潔にされていない場所に清潔な物で触れたりすると怒られるわけです。

 

まあそんなこんなで清潔に保つことの重要さを学び、外科の先生が研修医の先生を叱りながら進む手術にも少し慣れてきました。いうなれば立っているだけですからね。

 

術野は先生方と看護師さんが立っているので直接は見えません。基本的にモニターで映像を見ています。頭の中では「ああ、ここが○○動脈でこの臓器が○○ね」「いまはこの血管を縛っているのか」と言ったことを考えています。

 

もちろん、「ん?何やってるのかわからん」というときも非常に多いのですが、大変勉強になることが多いです。そうした時にふと頭をよぎった考えがあります。

 

「あれ?この患者さん、もしこの手術がうまくいかなかったら。。。?」

 

「うまくいかない」の定義にもよりますがさて、どうなるのでしょうか?

 

その時僕はちょうど「学生さん、次の予定もあるだろうからそろそろご飯行ってきていいよ」と言われてあと少しで抜けようと思っていた時でした。

 

手術中はずっと立っていて、偏平足なのもあり、そろそろ抜けたいと思っていました。すごく足が痛かった記憶があります。

 

そうした時に「どうなるの?」と考え始めてしまいました。考え始めるという表現は適切ではないですね。考えてすぐ「手術がうまくいかなかったら患者さんは明日の昼ご飯は食べられないよな」と思ったのです。

 

さて、ここに一つの構図が出来上がったわけです。「数時間立ちっぱなしで足が痛くお腹がすいてきた学生」と「その学生の前に横たわる、手術が失敗すると明日が来ない患者さん」という構図です。

 

背筋が凍りました。

 

次の予定に間に合うぎりぎりで手術を抜け、その日の実習を終え、家に帰りました。

 

そして考えて一つの残酷な結論に至りました。

 

僕が数時間遅く昼を摂ろうが早く摂ろうが手術には関係しない。僕が少し長く見ていたところで患者さんに影響はない。頑張っている患者さんをしり目にご飯に行くのがつらいかもしれないがその発想は「最も不幸な人と同じ人生を歩め」という思考につながりかねない。

 

だから僕が早くお昼に行くことは倫理的に不義ではないのです。

 

誰かが不幸であるからと言ってその人に自分の幸福を引きずられる必要は無いのです。ただ、大事なことは、良い/悪いの0-100でとらえるのではなくて、「頑張っている患者さんを尻目に好きに生きることができている自分」について考えることなのだろうと思います。

 

だからこそ僕はここで最後の団子を食べ、お茶を飲み干し、献血のニュースを見ながら実習のレポート作成に取り掛かるのです。