広東ゴルファー日記

香港とゴルフが好きな医学生投資家が毎日のことをつらつらと書く日記です。

【行動しよう】声をかけるか、いや、、【広東ゴルファー】

こんばんは。広東ゴルファーです。

 

今回のタグは「医学」になっておりますが、医学というよりはむしろ倫理的なお話をさせていただこうと思っております。ですのでもしご意見ご感想がおありでしたら是非コメントで教えていただきたいと思います。

 

先日のことですが、用事があり地下鉄を利用しました。地下鉄を降りて改札を出ようとした際に改札に引っかかっている方を見かけました。進入禁止方向から通ろうとしているその方を見て「おや?」と思いましたが、すぐに理解しました。その方は白杖をお持ちでした。視覚障害があったのです。僕が改札を通ろうとする間も何度か改札に引っかかっておりこれは大変だろうと思い、声をかけさせていただきました。

 

 

「すみません、何かお困りですか?」と尋ねると「〇〇に行きたいのですが」とおっしゃいました。〇〇とはすぐ近くで方向はその方の進行方向でよいのですが改札が邪魔をしており改札を回り込まなくてはならないところでした。僕は「方向はあってますが改札にぶつかってしまいます。後ろに5歩ほど下がると点字ブロックがあり、左右へ分岐していますよ」と言いました。男性はゆっくりと数歩下がるとすぐに左右の点字ブロックに気が付き建物の構造が分かったようで「ありがとうございます」と言って歩き始めました。

 

 

この時友人と一緒にいたのですが対応した後「手慣れてるね」と言われました。振り返ってみると僕の対応は手慣れたものだったかもしれません。声をかける際も体に触れず、手も握らず、ひたすら声だけで指示をしました。それは視覚障害のある方にとって急に触られたり引っ張られたりするというのは恐怖感があるというのを知っていたからです。また、これはたまたまですが、何のためらいもなく行動したことも友人からそうみられた一因だったのでしょう。

 

 

別に謙遜するつもりもないのですが(笑)僕は打算的な人間ですし、感情的に行動することもある人間です。いままで幾度となく困っている方を見て見ぬふりをしましたし、また逆もあります。それに友人がそばにいて見栄を張ろうとしたということも否定できません。事実褒められてうれしさを感じました。つまり善意100%ではないのです。

 

こうした場合、僕の取った行動というのは倫理的にどうなのでしょうか。僕は「偽善は善」という思考ですので僕のとった行動は僭越ながら善行だったと思います。では逆に何もしない、つまり見て見ぬふりをした場合はどうでしょうか。これは悪なのでしょうか。

 

僕は悪ではないと思います。困っている人を見つけても手を差し伸べないのが悪人だとしたらこの世の中は息苦しいでしょう。必ずしもいつも手を差し伸べられるとは限りませんし、何もしないという選択で現状より必ず悪化するということはないはずです。もしくは自分が手を伸ばさなくてもほかの人が助けるかもしれません。

 

これはすべて僕が以前に考えた言い訳です。助けないことに関して言い訳を考えたわけです。「なにもしない」という「動作」に対しての言い訳です。さてではなぜ言い訳を考えたのでしょう。単純な話、後悔していたわけです。何もしないことを後悔しつつもそれを正当化できないか試みる、それはひどく滑稽です。そんな滑稽な自分が嫌で、つまり自分が後悔したくなくて、後ろ髪をひかれたくなくて手を差し伸べるわけです。つまり助けていると同時に助けられてもいるということではないかと考えています。

 

 

そんなわけで困っている人を助けるというのはある種の浄玻璃の鏡を前にしているから行動できるんですよ、という話でした。

 

日頃から助け慣れて、助け癖をつけるといいですね。みんなも評価してくれるし尊厳も保ててその人も助けられて一石三鳥です。